2017年10月16日月曜日

酒の歴史

名酒のあるところ、名水あり。灘に「宮水」。
酒米の横綱「山田錦」は、灘の酒の母。
杜氏の技が生む、磨き抜かれた灘のお酒。
恵まれた自然と人の知恵による、灘のお酒造り。
灘のお酒~男酒、秋上がり

灘の酒造りは、若めの掛麹を使って硬水の宮水で仕込みます。しかも強く発酵させ、もろみ日数(仕込み終えてからお酒をしぼるまでの日数)は短いのが特徴です。
 そうして出来た新酒は辛口で舌触りが荒々しく、男性的でおし味があってしっかりしているので「男酒」と呼ばれます。
 この若々しい新酒も夏を越す間に熟成し、がらりと変わります。荒々しさはすっかり影を潜め、ふくいくとした香気の漂う、調和のとれたすっきりした酒質になるのです。このように、秋になって円熟味を増し、酒の質が上がることを「秋晴れ」「秋上がり」といい、他には見られない、灘のお酒の一大特徴なのです。
 反対に「女酒」といわれる甘口のお酒もあります。軟水を使い、おだやかに長期間発酵させて作るお酒で、新酒の間は滑らかで飲みやすいのですが、夏を越すと酒質は下がってきます。これを秋落ちといいます。

歴史

灘の酒造りの始まりは古く、室町時代にはすでに酒造が始まっていたとの記録があります。一般的には寛永年間(1624~43)に伊丹の雑喉屋文右衛門が西宮に移り住んで酒造りを始めたのが最初とされています。
 江戸時代初期には、水と交通の便に恵まれた池田・伊丹地域が江戸向けの酒造地域として繁栄していました。これに対し灘地域は、水車を使った精米や寒仕込みなど独創的な技術を駆使して優良酒造りに励み、その名声を高めていったのです。さらに江戸への酒の輸送問題も灘を優位に立たせました。灘をはじめ、上方で作られた酒は大消費地である江戸に向けて出荷されましたが、伊丹や池田の酒が馬の背に樽を積んで、港まで陸送しなければならなかったのに比べ、沿岸部に接していた灘地域は大量の酒を樽廻船で運ぶことができたのです。樽廻船は酒を専門に運ぶ帆船で、江戸へは20日ぐらいで到着しました。幕末には3000もの樽を一度に運べる船も現われ、灘の発展におおいに役立ったのです。
 ちなみに、江戸時代に灘五郷といえば下灘郷(現在の神戸市兵庫区・中央区)、西郷(同市灘区)、御影郷(同市東灘区)、魚崎郷(同市東灘区の一部と芦屋市)、今津郷(西宮市)を指しました。その後、下灘郷が抜けて西宮郷が加わり、現在は西郷、御影郷、魚崎郷、今津郷、西宮郷(西宮市)を灘五郷と呼んでいます

樽廻船(模型・伊丹博物館)

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